日蓮正宗美畑山清涼寺 千葉の清涼寺 法華講ホームページ 千葉県千葉市花見川区畑町

日蓮正宗美畑山清涼寺は、千葉県千葉市花見川区にある日蓮正宗の寺院です

〒262-0018 千葉県千葉市花見川区畑町2010番地 Tel.043-273-3987
発心杖

第20号 H25.9.3 「頑固な汚れを落とすには・・・」

 世間には「苦は楽の種、楽は苦の種」という言葉があります。

 苦しみのなかに楽しみがあり、楽しみのなかに苦しみがあります。
楽しいことにかまけてそれだけに執われてしまうと、必ず苦しみがやってきます。
人生のなかにおいて苦しみと楽しみは、ちょうどあざなえる縄のようなもので、必ず苦楽ともに味わうものなのです。
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて」
と、大聖人はお仰せです。

 私たちが生きていく上で、色んな形で苦難があることは、誰しもが認めるところですが、その苦難に、どう向き合っていくか、それが大切です。
難が来ることが人生では当たり前のことであるとして認めて、逃げなけません。
そして、この苦のなかに安楽があるのだと思うことができる命、そこに立ち向かっていく、強い命を持つことができるのが、これが本当の信心なのです。

 大聖人が仰せのように、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えていくところに、全てを乗り越えていける境界が得られるのです。すなわち私たちが自分の生活のなかで苦しみを楽しみにしていくには、南無妙法蓮華経と唱えること以外にないのであります。

 結局、さまざまな苦しみの原因も過去の自身の行いによるところでありますから、苦しみの原因を知り、これを正しく取り除いていかなければなりません。

 私たちの持っている罪障、宿業というものは、自分が過去世の知らないうちに作ってしまっており、そのなかでも苦しみの原因となる最大のもの、それは誹謗正法の罪です。
この一番恐ろしい、正法謗法の罪を消滅する道、それは折伏以外にないのです。

 折伏をすると、異常な迫害を受ける、難を受ける、嫌な思いもすることもあります。
しかし、法難に遭うことによって罪障を消していく命の頑固な汚れをとることができるのであります。

 例えば、手が泥で汚れたら、水で洗い落とせば綺麗になりますが、しかし、それが頑固な油で汚れていたら水だけでは落ちません。
洗剤や石けんを使わなければ綺麗にならないのです。
つまり、私たちの命の汚れというものも、世間的な罪だけだったら、法律や規則による処罰によって償うことも出来ます。
しかし、誹謗正法の罪によって受けた命の汚れは、この大聖人の正法を信じ、折伏を行じていく他はないのです。

 どうか皆様には苦悩の中にあっても、いかなる状況の変化があろうとも、一切を御仏智に任せ朗々と題目を唱え続け、いかに法難に遭おうとも折伏弘教に邁進されて、御本尊の大功徳と諸天の加護を得て自身の祈りを叶えていって頂きたいと願うものであります。

第22号 H25.9.17 「慈悲の心で折伏を」

「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」
 幕末の志士、吉田松陰が29歳で処刑されたときに詠んだ辞世の句である。
その意味は「親思う心にまさる親心というが、自分が親になって初めてその気持ちがわかった」である。
いつの時代も親が子を思う気持ちは変わらない。
その心は慈悲以外の何ものでもない。

 先日の折伏していたとき、ある人にこのような事を言われた。
 「なぜあなた方は、自分(日蓮正宗)の宗派しか認めず、他の宗教を否定するのか」
「どの宗教でも素晴らしいところはある、宗教者が攻撃的な態度はいけない」と。

 大聖人の破邪顕正の意義を知り得ない人々には、折伏弘教の姿勢すら納得できないのだろう。
ともかく、そのような時、私はこう言い返す。

「宗教は本尊、教えが皆異なりますから、当然、結果(功徳・罰)も異なります」
「ウソの教え、本尊を信じ敬えば、その人は不幸になるのです」
「あなたは、横でいま毒薬を飲もうとしている人がいたならば、それを制止しませんか?」
「火事場で遊ぶ子供を見たら助けようとはしませんか?」
「誤った宗教を選び不幸の道を辿る人を、見ていながら助けないことは無慈悲極まる行為ではないですか?」と。

 大聖人もこのように仰せである。
「我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや。悪人、寺塔に火を放たんに、せいせざるべしや。一子の重病を灸せざるべしや。日本の禅と念仏者とを見て、せいせざる者はかくのごとし。「慈無くして詐り親しむは、即ち是彼が怨なり」等云云」

 これは、自分の父母が人に殺害されんとし、また自分のいとし子が重病におかされた時に、助けを求め、薬を与え、医者を呼び治療をしない人がどこの世界にあるであろうか。
これと同様、邪宗教たる禅、念仏等の謗法の汚泥に染まって、まさに地獄の炎にむせんでいる人を助けず、ただ世俗の関係で肉親の恩愛のみによって、こびへつらう事は真の慈悲ではなく、むしろ、彼等の救済の為には、かえって怨となっている、との御叱責されている。

 いま目の前で、川でおぼれかかっている人を見ながら、その悲痛な叫び声を聞きながら、その人を助けずに立ち去る事は、結果的には、その人を川に突き落して、溺死させてしまう事と、何ら変わらない。

 また冬の夜中に、布団をはいでしまっている我が子を見ながら、布団をかけないで風邪をひかせてしまった親は、子供の布団をはいで風邪をひかせるのと、結果的には同じ事である。

 私たちの折伏行もまさに、これと同様である。
邪宗教に騙され不幸になる人を、地獄に向かう人を目の前で見て知ったならば、相手を救おうという慈悲の心から邪宗教、謗法の恐ろしさを説き、真の幸せへの方途を教えるのである。
仏の使いとしての慈悲の行、それが折伏なのだ。

 私たちは、人を選ばず、縁ある人々に対し折伏を行う、如何なる誹謗を受けても、穏やかな心で耐え忍び、折伏を行ずる。
この機会を逃せば「次はない」との決意と、相手を思う強い一念を奮い起こして折伏に精進することが大切なのだ。

 まさに大聖人が、
「母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」
との母が我が子を思うように、どんな人に対しても相手のことを思う慈悲の心をもって折伏していこう。

第21号 H25.9.9 「亀の信心、うさぎの慢心」

 皆様は「鍛錬」「百鍛百錬」という言葉を御存知でしょうか。
幾度もいくたびもたたき、鍛え、錬りあげるという意味の言葉であります。
一本の名刀を作るのに刀鍛冶は何度、焼き鍛え、鎚を打ち、研ぎ磨くことでありましょうか。
私たち人間も?真金の人?といわれるためには、やはり鍛えるということが必要なのであります。

 私たちの修行も同じであります。大聖人の御指南を常に深く体しつつ、衆生を真に導き、成仏せしめる道は三大秘法の御本尊以外にないのであるということを本当に確信し、その上から一歩でも二歩でも、五歩でも十歩でも進んでいくことです。
それが行の意味であります。

 「うさぎと亀」という譬えがありますが、「着実」という意味において、参考になる話であると思います。
あれは、足の速いはずのうさぎが負けました。
うさぎはピョンピョン跳んでいったけれども、「ここらでちょっと一眠り」と眠ってしまいます。
その間に亀は、倦まず弛まずノソノソ歩いていって、うさぎが目を覚ました時には、亀は目的地に到達していたのです。

 このうさぎの考え方のなかには、「亀なんかに負けない。自分は絶対に勝れているのだ」という傲慢な心、驕りがあるのです。
この驕りが、人間の一番の悪徳の意味があります。
この驕りがあるから油断するのです。
「自分はこれだけ立派なことをしてきた。自分以上の人間はいない。あとはみんな私についてくればいいのだ」

 結局、この慢心と驕りによってうさぎが負けるのです。
亀は目立たないし、見栄えもよくないかも知れない。
けれども、着々と自らの進むべきことに常に倦まず弛まず進みます。

 うさぎのような慢心を戒め、常に謙虚な姿勢で一歩一歩、地に足をつけて着実に亀のように前進するとき、ふと自分が歩いた道のりを振る変えるとき、大きな進歩と功徳があるはずです。

 信心の功徳にも一獲千金はありません。あくまでも信心の厚薄、志の積み重ねによるのでありまして、地道な、まじめな信心が肝心ということなのです。

 清涼寺支部の誓願目標の道のりのも、目の前にある一つ一つの折伏を坦々と確実に行っていく、歩みを止めず常に前進することこそが、誓願達成のカギであります。