第22号 H25.9.17 「慈悲の心で折伏を」
「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」
幕末の志士、吉田松陰が29歳で処刑されたときに詠んだ辞世の句である。
その意味は「親思う心にまさる親心というが、自分が親になって初めてその気持ちがわかった」である。
いつの時代も親が子を思う気持ちは変わらない。
その心は慈悲以外の何ものでもない。
先日の折伏していたとき、ある人にこのような事を言われた。
「なぜあなた方は、自分(日蓮正宗)の宗派しか認めず、他の宗教を否定するのか」
「どの宗教でも素晴らしいところはある、宗教者が攻撃的な態度はいけない」と。
大聖人の破邪顕正の意義を知り得ない人々には、折伏弘教の姿勢すら納得できないのだろう。
ともかく、そのような時、私はこう言い返す。
「宗教は本尊、教えが皆異なりますから、当然、結果(功徳・罰)も異なります」
「ウソの教え、本尊を信じ敬えば、その人は不幸になるのです」
「あなたは、横でいま毒薬を飲もうとしている人がいたならば、それを制止しませんか?」
「火事場で遊ぶ子供を見たら助けようとはしませんか?」
「誤った宗教を選び不幸の道を辿る人を、見ていながら助けないことは無慈悲極まる行為ではないですか?」と。
大聖人もこのように仰せである。
「我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや。悪人、寺塔に火を放たんに、せいせざるべしや。一子の重病を灸せざるべしや。日本の禅と念仏者とを見て、せいせざる者はかくのごとし。「慈無くして詐り親しむは、即ち是彼が怨なり」等云云」
これは、自分の父母が人に殺害されんとし、また自分のいとし子が重病におかされた時に、助けを求め、薬を与え、医者を呼び治療をしない人がどこの世界にあるであろうか。
これと同様、邪宗教たる禅、念仏等の謗法の汚泥に染まって、まさに地獄の炎にむせんでいる人を助けず、ただ世俗の関係で肉親の恩愛のみによって、こびへつらう事は真の慈悲ではなく、むしろ、彼等の救済の為には、かえって怨となっている、との御叱責されている。
いま目の前で、川でおぼれかかっている人を見ながら、その悲痛な叫び声を聞きながら、その人を助けずに立ち去る事は、結果的には、その人を川に突き落して、溺死させてしまう事と、何ら変わらない。
また冬の夜中に、布団をはいでしまっている我が子を見ながら、布団をかけないで風邪をひかせてしまった親は、子供の布団をはいで風邪をひかせるのと、結果的には同じ事である。
私たちの折伏行もまさに、これと同様である。
邪宗教に騙され不幸になる人を、地獄に向かう人を目の前で見て知ったならば、相手を救おうという慈悲の心から邪宗教、謗法の恐ろしさを説き、真の幸せへの方途を教えるのである。
仏の使いとしての慈悲の行、それが折伏なのだ。
私たちは、人を選ばず、縁ある人々に対し折伏を行う、如何なる誹謗を受けても、穏やかな心で耐え忍び、折伏を行ずる。
この機会を逃せば「次はない」との決意と、相手を思う強い一念を奮い起こして折伏に精進することが大切なのだ。
まさに大聖人が、
「母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」
との母が我が子を思うように、どんな人に対しても相手のことを思う慈悲の心をもって折伏していこう。
発心杖|2013年9月17日