日蓮正宗美畑山清涼寺 千葉の清涼寺 法華講ホームページ 千葉県千葉市花見川区畑町

日蓮正宗美畑山清涼寺は、千葉県千葉市花見川区にある日蓮正宗の寺院です

〒262-0018 千葉県千葉市花見川区畑町2010番地 Tel.043-273-3987
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日蓮正宗 信仰のすすめ

 「信仰」というと、なにか堅苦しいイメージをいだいてしまうかもしれませんね・・・。
でも信仰とは私たちの人生を送るうえで、欠かすことのできないものなのです。

 お釈迦さまは今からおよそ3000年前にたくさんの教えを説かれました。その教えというものは、私たちの現実世界からかけ離れた遠いところにあるというわけではなく、実は私たちの身近なところにあって、私たちがどう生きていけば本当の幸せを掴んでいくことができるか、などの答えを教えてくれたものなのです。

 もし、あなたが少しでもその教えに興味を持ち、自らの力で本当の幸せを掴んでいこうと望むならば、日蓮正宗の信仰の話に耳をかたむけてみてはいかがでしょうか・・・?。

第28号 H25.10.21 「あなたは火の信心?水の信心?それとも・・」

 皆さん、おはようございます。方丈通信でございます。

 大聖人の『上野殿御返事』に、
「抑今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。
水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。
此はいかなる時もつねはたいせずとわせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか。たうたしたうとし」
という、火の信心・水の信心を説かれている御文がございます。

 私たちの信心には大別して「火の信心」と「水の信心」があります。

 火の信心とは、一時的に強盛な信心を発こし、あたかも火が天に昇るように盛んに燃えた姿で仏道修行を行ったとしても、やがて時間が経つにつれて火がおさまり鎮火するように、信心も遠ざかってしまうことであります。
一時はよく寺院へ参詣していたのに来なくなってしまった、以前は折伏を必死に行っていたのに最近は停滞しているなど、浮き沈みが激しい信心のことを「火の信心」といいます。

 これに対して水の信心は、「いつもたいせず」と仰せのように、止まることなく常に流れ通う信心であります。
水は一カ所に止まっていると日ごとに濁りを増して、ついには腐ってしまいます。
ですから水は水でも濁っている水ではなく、川の水の如く常に流れ通う澄んだ水でなければならないのであります。
いつ如何なる時でも大聖人様の信仰を実践し続けることが「水の信心」をしている人であります。

 しかし、この「水の信心」を取り違えてはなりません。
 それは、水の流れるがごとき信心でも惰性に流された弱い信心ではいけないのです。
退転することはなくても歓喜もなく、情熱もなく、積極性もない信心ではいくら続けているとはいっても本当の大きな功徳は頂けません。

第五十九世堀日亨上人は、
「信仰の風格にも、各自の本然の気質をうちだすものである。
温良な人は、水の消極的の微温な信仰になりやすい。
猛烈な人は自然に火の信仰になる。
欲をいえば、火の信仰を水の信心に続かせたい。
すなわち、熱湯の信仰というべきであろうか」
と御指南くださっております。
「火の信仰を水の信心に続かせる」ような「熱湯の信心」が理想です。

 つまり常に滔々と流れる水のごとき信心をしながら、また積極的に勇猛に修行に励むことが肝心であります。
季節が移り変わっても、時代が経過しても惰性に流されることなく微弱な行体にならず、常に歓喜と情熱をもって生き生きとした信心を持ち続けることを心掛けましょう。

 また堀日亨上人はこうも仰せになっています。
「常恒不断の信仰は消極的で、ごく微温なものが多い。
不退の方は結構であるが、微温では仕方がない。消極は困りものである。
自身だけは、謗法もせず迷いも怠りもせぬつもりであろうが、消極の信心、微温の信仰では化他力が少ない。
白熾熱にして始めて燃焼の力用が強い。熱心なればこそ他人を感化するの効用がある」

 折伏においても熱意がなければなかなか相手の心を揺さぶることはできません。
相手を救おうという一念から情熱が沸き、その熱のこもった折伏によって相手の心を、命を動かすことができるのであります。

 どうぞ、皆様には水の信心を沸き上がらせて「熱湯の信心」を貫き通すことを心掛け、常に唱題に、折伏に燃え立ち勇猛邁進して頂きたいと思います。

第27号 H25.10.19 「幸福に対する考え方」

  人間は誰もが幸福を望みます。
この幸福とは社会的地位や多くの金銭を持つことを幸福と感じる人もいれば、健康で不自由でなければ良いと考える人もいます。 

 しかし、これらの幸福は一生に渡って続く物ではありません。
 社会的な流れであるとか、環境の変化によって人の生活環境は変わってしまいます。 

 テレビや新聞において、栄華を極めていた人が転落したり、不慮な事故や事件に巻き込まれた事で苦しんでいる姿を多く報じられ、誰もが分かっています。 

 ですので、私たちが普段思っている幸福というのは一時的で不安定なのです。
 私たち日蓮正宗を信仰する者はそのような幸福を目指すとは違います。 

 それは絶対的な幸福を目指すという事であります。
 この絶対的な幸福とは即身成仏の境界を目指すという事であります。
 絶対的な幸福、即身成仏とは死んで素晴らしい世界に行くのでもなく、人間とかけ離れた超越者になることではありません。
 私たちの命の中には下は地獄、餓鬼、畜生という命から最上は仏界までの命が含まれています。
 その最上の命である仏界を引き出す事が即身成仏の境界なのであります。 

 この即身成仏の境界とは周りの状況に紛動されることなく、苦しみの中においても切り開いていける力強い生命力と勝れた智慧を持つことであります。
 周りの状況の変化によっても一喜一憂することなく、生きていくことができるのであります。
 この即身成仏の境界を得るには信心修行をしなければ、得ることはできません。
 よって日々の信心修行の積み重ねが大切になってくるのです。 

 ただし、自分だけが幸せになろうと考える人はこの境界を得ることは出来ません。
 周りの人を救おうとする命を持つ事が大切で、これが慈悲の心を持つという事です。
 この中で自分だけしか考えていない人は改めて考え直し、縁のある人を救っていこうと御本尊様に祈り、行動に移す必要があります。 

 それは折伏行であります。その行いが自分の境界を高めることになりますので、日々の生活の中で実践してまいりましょう。

第25号 H25.10.8 「本当の宝を求めて」

 世の中には、種々の宝が存在します。

 個人的には、貴重な財物や財産、またかけがえのない家族・友人などもそうでしょう。
家庭においては家や土地、また先祖代々伝わる家宝なども一家の宝と言えます。
さらに、国においては重要文化財などの文化的芸術的価値がある国宝やその国の歴史や、歴史に名を残した人物なども国の宝と言えるでしょうか。

 しかし、この宝も、所用する人物や時代などによってその価値も変わってきます。
Aさんの宝が、Bさんにとって宝となるとは限りませんし、骨董品のような、昔はそれほど価値がなかったものが、時間が経過するごとに高額の値が付いたりします。
さらに具体的に申しますと、ご主人がお金を掛けて購入した車やゴルフクラブは、奥さんにとってはそれほど貴重なものとは思えないでしょうし、逆に、奥さんが一所懸命集めた宝石やブランド品は女性にとって魅力的な物でありますが、しかし、これとて夫からみれば必要のないものです。
また、子供が大切にしているオモチャは、親にしてみれば部屋を狭くさせる我楽多にさせ思えることがあります。

 このように、一口に宝といっても、持つ人によって、またその時代によって価値は変わるのです。

 さて、仏教においての宝をみてみますと、御経典で説かれる「宝」とは、私達の最高の生命である仏性や悟りの成仏に譬えております。

 法華経の『五百弟子受記品』の中で「貧人繋珠の譬」という譬喩がでてきます。

 いま簡略に申しますと、
「ある貧乏な男が親友の家で酒に酔って寝入ってしまいました。
親友は外出するので、眠っている男の衣装の襟の裏に、宝の珠を縫い込んで出掛けました。
男はそれに気付かず、そののち他国を放浪し、少しの収入で満足しながら暮らしていました。
再び親友に出会ったとき、親友から宝の珠のことを聞かされ、男は初めてそれに気づき、ようやく宝の珠を得ることができ、裕福な暮らしをすることができた」
という話であります。

 この譬え話では、酒に酔った男は声聞の衆生のことで、親友は仏、釈尊のことであります。阿羅漢果という小乗の悟りに満足する愚かな衆生が仏の真実の教えを聞いて、はじめて自分の中にも仏性が具わり、成仏が可能である、と知ったことを教えられています。

 皆様の中にも、お酒に酔った際に、大事な財布や書類などをどこかに忘れてしまった、などの失態をされた方もいらっしゃるかと思います。

 この貧人繋珠の譬は、最も清く勝れている仏と同等の生命である仏性を、私達は他に求めずとも、元々自分自身に持っている。
しかし、煩脳という酒に酔い、これを見つけることができずにいて迷いの生活を送っている、という御教示なのです。

 大聖人も、
「我等衆生無始曠劫より已来、妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども、無明の酒にたぼらかされて、衣の裏にかけたりとしらずして、少なきを得て足りぬと思ひぬ」
と、末法の私達も過去より妙法蓮華経という宝を片時も離さず持っているのに、煩脳という無明の酒に酔い気が付くことができない、しかも少しばかりの利益を得て十分であると思っている、と仰せなのです。
ことわざにも「秘事は睫(まつげ)」とありますが、目に一番近くにある睫が見えないと同じであります。

 では、この宝珠である仏性を見つける方法は何かと申しますと、言うまでもありません。
それは正しい対境、つまり御本尊に巡り会うことです。
仏性は正しい真実の正境たる御本尊にお題目を唱え、境智冥合しなければ涌現・覚知することができないのであります。

 ですから、邪宗教を信仰している人々は、六道輪廻をし続け、迷いや苦悩の境界に止まり、仏性を見つけることができない、いわゆる「宝の持ち腐れ」をしているわけです。

 どうぞ、皆様には世間のはかない宝を求め過ぎず、本当の宝を得られるよう、正法正義たる御本尊と境智冥合できる信心を貫いて参りましょう。

第24号 H25.9.28 「登山について」

 日蓮正宗においては、この多宝富士大日蓮華山・総本山大石寺に参詣することを、古来より「登山」と言い習わしており、仏道修行の中でも最も重要な修行の一つとしています。
ゆえに当宗では、昔から「毎日仏壇、月にはお寺、年に一度は大石寺」と云われ伝わっているのであります。

 皆さんは、総本山への登山をどのような目的をもって来られているのでしょうか?
 ・ある人は、自身の病気や悩み事などを御祈念するため。
 ・またある人は、自己の信心倍増の為。
 ・また中には、ただ単純にお寺の行事の一貫として来られている方もいるかも知れません。
 各々登山目的は異なるかも知れませんが、ここで登山の意義をいくつか挙げてみます。

 まず第一に、大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊様を内拝させていただく御開扉を受け、大御本尊様と御本仏日蓮大聖人へ御報恩感謝申し上げることであります。

 第二に、大御本尊様に広宣流布の大願成就と、全人類の幸福平和を御祈念して、その実践の決意と精進をお誓い申し上げることであります。

 第三に、自身の無始以来の謗法と罪障を消滅し、現当二世にわたる大願成就と信心倍増を願うことであります。

 第四に、御法主上人猊下にお目通り申し上げること、現在では特別理由がないかぎりお目通りは許されませんが、御開扉の時に御法主上人猊下の御姿を謹んで拝し、また読経唱題を一緒に唱和することも御目通りの一分になろうかと思います。

 第五に、御供養をさせて頂くこと。
過去の御信徒方は、登山の折には必ず御供養を持参されていた事が、御書によって明かであります。

 多くの方は、御開扉において今申し上げた中の自分自身の罪障消滅等の願い事は進んでおこなっていることと思いますが、特に大事なことは大御本尊様・御本仏大聖人への御報恩感謝と、広宣流布の成就そして御命題達成の御祈念とその実践の誓いであります。
  これら大事を御開扉の際には是非心掛けて頂きたいものであります。

 さて、話しは変わりますが総本山大石寺には、山内に建立されているさまざまな堂宇の意義や時代時代の御先師、諸先輩方にまつわる伝承がございます。

  ここで皆様がどのくらい総本山のことを知っているか問題を出したいと思います。

【第一問】 日興上人の説法を聞いた生き物とは?
 石之坊には、大きな石があります。
これを「説法石」といって日興上人が身延を下りられ、この地にこられて大石寺を建てている間、この大きな石の上で説法をされていたと伝えられている石であります。

  ここまではご存知の方も多いでしょう。
さて、当時村人を困らせていた生き物が、この説法石でされる日興上人の説法を聞いて悪さをしなくなったという伝承がありますが、さて、その生き物とはなんでしょうか?

【第二問】 隠れ代官坊は?
 総本山の塔中には古来より代官坊なる坊がございます。
代官坊とは、御法主上人猊下がお留守の時に代わりに法務を執り行う大切な役目を果たす僧侶が住まわれる坊のことで、この代官坊は格式が他の坊より一段上ということで朱塗りの門になっています。
参道を歩いて塔中の門を見ていただくと寂日坊だけが朱塗りであることがわかると思います。
つまり、寂日房が代官坊であるのです。

 さて、塔中には寂日坊の他にもうひとつ代官坊があります。
しかし、この坊は現在朱塗りではありませんので一見、判断することは難しいのですが、そのもう一つの代官坊は「○○坊」でしょうか? 

ヒント:門のある部分の形が他の塔中の門と異なります。

【第三問】 御影堂前の石畳を御供養したのは誰?
 現在、大改修をしている御影堂前の石畳の階段を御供養された御信徒がいます。
ご存じでしょうか?

 御影堂前の階段および石畳は、日俊上人の代(貞享三年(1686年)に新設されたことが記録として残っておりますが、境内の中心堂宇である御影堂には多くの僧俗が参集することから、参道から御影堂に至る手前の場所に生じていた高低差は参詣者を悩ませていたことが推察されるのです。
こういった不便を解消するために篤信のご信徒が浄財を御供養され、補修工事をしたのです。

 現在の御影堂前の階段は昭和6年の御影堂改修の折に補修されておりますが、そのときにご供養された篤信の御信徒とは、どこの所属の誰でしょうか?
ヒント:御影堂前の階段にいけば分かるかも。

 この三問すべて正解した方は総本山に詳しい方と言えますね。

 本門戒壇の大御本尊様の御開扉を賜ったその功徳福徳は計りしれないものがあります。
どうぞ、この功徳と歓喜をもって残された月日を誓願達成に向かって邁進して参りましょう。

 さて、3つの問題の答えを発表致します。
みな、さまざまな答えを出しておりました。
でも3問とも正解した人は少なかったように思います。

【第一問】 日興上人の説法を聞いた生き物とは?

(解答) 大蛇(ヘビ)です。

 昔、まだ大石寺ができる前、今の塔の原グランドの東側のところに「大蛇ヶ窪」という窪地がありまして、そこに大蛇が住んでいて村の人々はその大蛇に恐れを抱いていたそうです。
そして日興上人がこの地に来られて、説法石の上で説法をされているとこの大蛇が来て小さな蛇に変わったそうです、それ以来、大蛇ヶ窪には出なくなり、説法になるといつもこの場所に現れて、最後は蛇身を変じて兜率天に生まれ変わったという話しがあります。

 後に観行坊日陳師は大蛇ヶ窪に石碑を建てたそうです。
そして近年は観行坊の境内地にその石碑があります。

【第二問】 隠れ代官坊は?

(解答) 久成坊です。

 塔中の代官坊は寂日房であることは、他の坊と異なり、寂日坊の門が朱塗りであることから把握できます。
ではもう一つの代官坊の久成坊でありますが、久成坊は、現在朱塗りではなく黒塗りの門でありますから色で判別はできません。
しかし門の柱の形が他の坊が四角であるの対し、久成坊、寂日坊は丸い形をしております。
これが他の坊より格式が高いことを表しているのです。

 久成坊が代官坊となった経緯を示す文献は見当たりませんので、もし今後詳しいことが分かりましたらご報告致します。

【第三問】 御影堂前の石畳を御供養したのは誰?

(解答) 東京本因妙講の内山ワカさんです。

 御影堂正面のすぐ前にある石段を通られた方は分かったと思いますが、現在もしっかりと「東京 内山ワカ」と石段に刻まれております。

 内山ワカさんとは、日應上人時代の信徒内山伊三郎氏を父として生まれ、当時の東京本因妙講の信徒で東京池袋・法道院草創期に多大な貢献を果たし生涯強盛な信仰を貫ぬいた方であります。

ワカさんについて元、法道院御主管であられる観妙院上人は、
「内山のおばあさんは法道院にとって格別な因縁を持っているお方です。
法道院開基日應上人の御指導を終始一貫に受け切って、信心修行に励んで来られたお方です。
今日、法道院が大御本尊様の御利益と御信者の外護をもって堂々と宗門でも一、二の寺院としてこられたのも、内山のおばあさんが居たればこそ、今日の法道院の建立があり、今日の建設があったと思う次第です。
日應上人と内山さん。内山さんと法道院の関係は法道院の歴史に永くとどめていかなくてはなりません」
と語られており、

また、内山ワカさんの当時を知る星野氏は、
「今から五十年も前にさかのぼります頃、内山様が菅野紀元次様と言う御立派な弁護士の先生を折伏あそばしました。
あの様な方をどうやって折伏なさったのかと知りたくて、菅野先生に直接質問をしたことがございました。

「それはね、星野さん、私が所用で内山さんのお宅へ伺った時のことです。
その日は大変に寒い雪まじりの日でした。
手あぶり火鉢に炭火をたくさん入れて、暖かくして、御本尊様の前にすすめて、あたかもそこに大聖人様のいられるように
「大聖人様、今日はことのほかにお寒い日でございます。どうぞお暖り下さいませ」
と心からお話をしていられました。

その時です。
「これは素晴らしい信心だな…」と感じて入信させていただく決心がつきました。
とお話を伺って、真心だなと感じました。

それ以後、私は「折伏は真心」を根本に折伏をさせていただいております。」
と述べられています。

 内山ワカさんは、総本山や池袋法道院などに多大な貢献を果たし、また真心をもって折伏に望まれた篤信のご信徒だったのですね。
私たちも内山ワカさんに見習い、総本山や菩提寺を外護する精神を大切にしたいものです。

 今回の質問以外にも総本山には様々な歴史、堂宇の意義、伝承が存しますので、少しでも学び自身の信心の資糧として頂きたいと思います。

第23号 H25.9.26 「信心即生活を実践しよう」

 「世法即仏法」ということを聞いたことがありますか?
 入信歴が長い講員であれば一度は聞いたことがあると思います。

 私たちの日常生活におけるさまざまなことは実はすべて仏法であって、世法と仏法はけっして別々のものではない、という意味です。

 でもこの意義を本当に理解して実践できている人は果たしてどのくらいいるでしょうか。

 例えば、今日一日のすべての出来事を常に信心の上から受け止めているでしょうか。
良いことがあったのは御本尊様のお陰と感謝申しあげる、悪いことが起こったならば今の自身の信心姿勢を振り返り戒めてみるということができてますか。

 社会人であれば仕事に取り組むとき、また学生であれば勉学に励むとき、主婦であれば家事をするとき、これを単に世間の行いとして捉えるのではなく、仏道修行の一環として取り組んでいるでしょうか。

 大聖人様は「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と仰せです。
 「御みやづかい」とは仕事のことで、仕事の時も法華経の修行と思い励みなさいということです。
なぜかといえば、働くことによって稼ぐことができ、それによって御本尊様への御供養や寺院に通う交通費、折伏活動費などが生じるからであります。
ですから、定年退職や病気などは例外として、ちゃんと働ける立場にありながら仕事を疎かにすることは仏道修行を怠っていると同じなのです。

 学業も同じです。
いまの勉強が将来、御書を学ぶときに役に立つ、折伏に活用できると思って取り組むことです。
家事においても、御本尊様、仏様のお住まい(自宅)を清掃する、仏道修行で流した汗のついた衣類を洗う、折伏に歩く体力のための食事を作る、と考えることです。

 このように世法即仏法、信心即生活を心掛けることが大事なのです。
仏壇の前に座ったときだけ、お寺にいるときだけが仏道修行ではありません。
仕事、学業、家事、趣味など日常生活のありとあらゆるものは、すべて仏道修行の一部なのです。
信心即生活を心掛け日常を過ごせば、生活そのものが功徳を頂ける仏道修行となるのです。

 大聖人が「天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得べきか」と仰せのように、天が晴れれば大地にあるあらゆるものがはっきりと見ることができますが、またその反対に雲に覆われていれば地上が暗くて、色々なものを正しく判別することができなくなります。

 要するに、私たちの生活における一切のものの見方、判断等の根本に仏法が存するということなのです。
信心即生活とはいっても生活が主、信心が従となってしまうことは間違いです。
あくまで信心を主体、中心として物事を捉えることが大切なのです。

 真剣に題目を唱えることによって妙法の功徳を得て、おのずと日常生活の判断、行動が正しいものへ変わり境界が開かれていくのであります。

 どうか、信心即生活の実践を心掛け、真の御本尊様のもと正しい仏道修行を行い充実した生活を営まれるよう、念願するものであります。

第20号 H25.9.3 「頑固な汚れを落とすには・・・」

 世間には「苦は楽の種、楽は苦の種」という言葉があります。

 苦しみのなかに楽しみがあり、楽しみのなかに苦しみがあります。
楽しいことにかまけてそれだけに執われてしまうと、必ず苦しみがやってきます。
人生のなかにおいて苦しみと楽しみは、ちょうどあざなえる縄のようなもので、必ず苦楽ともに味わうものなのです。
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて」
と、大聖人はお仰せです。

 私たちが生きていく上で、色んな形で苦難があることは、誰しもが認めるところですが、その苦難に、どう向き合っていくか、それが大切です。
難が来ることが人生では当たり前のことであるとして認めて、逃げなけません。
そして、この苦のなかに安楽があるのだと思うことができる命、そこに立ち向かっていく、強い命を持つことができるのが、これが本当の信心なのです。

 大聖人が仰せのように、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えていくところに、全てを乗り越えていける境界が得られるのです。すなわち私たちが自分の生活のなかで苦しみを楽しみにしていくには、南無妙法蓮華経と唱えること以外にないのであります。

 結局、さまざまな苦しみの原因も過去の自身の行いによるところでありますから、苦しみの原因を知り、これを正しく取り除いていかなければなりません。

 私たちの持っている罪障、宿業というものは、自分が過去世の知らないうちに作ってしまっており、そのなかでも苦しみの原因となる最大のもの、それは誹謗正法の罪です。
この一番恐ろしい、正法謗法の罪を消滅する道、それは折伏以外にないのです。

 折伏をすると、異常な迫害を受ける、難を受ける、嫌な思いもすることもあります。
しかし、法難に遭うことによって罪障を消していく命の頑固な汚れをとることができるのであります。

 例えば、手が泥で汚れたら、水で洗い落とせば綺麗になりますが、しかし、それが頑固な油で汚れていたら水だけでは落ちません。
洗剤や石けんを使わなければ綺麗にならないのです。
つまり、私たちの命の汚れというものも、世間的な罪だけだったら、法律や規則による処罰によって償うことも出来ます。
しかし、誹謗正法の罪によって受けた命の汚れは、この大聖人の正法を信じ、折伏を行じていく他はないのです。

 どうか皆様には苦悩の中にあっても、いかなる状況の変化があろうとも、一切を御仏智に任せ朗々と題目を唱え続け、いかに法難に遭おうとも折伏弘教に邁進されて、御本尊の大功徳と諸天の加護を得て自身の祈りを叶えていって頂きたいと願うものであります。

第22号 H25.9.17 「慈悲の心で折伏を」

「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」
 幕末の志士、吉田松陰が29歳で処刑されたときに詠んだ辞世の句である。
その意味は「親思う心にまさる親心というが、自分が親になって初めてその気持ちがわかった」である。
いつの時代も親が子を思う気持ちは変わらない。
その心は慈悲以外の何ものでもない。

 先日の折伏していたとき、ある人にこのような事を言われた。
 「なぜあなた方は、自分(日蓮正宗)の宗派しか認めず、他の宗教を否定するのか」
「どの宗教でも素晴らしいところはある、宗教者が攻撃的な態度はいけない」と。

 大聖人の破邪顕正の意義を知り得ない人々には、折伏弘教の姿勢すら納得できないのだろう。
ともかく、そのような時、私はこう言い返す。

「宗教は本尊、教えが皆異なりますから、当然、結果(功徳・罰)も異なります」
「ウソの教え、本尊を信じ敬えば、その人は不幸になるのです」
「あなたは、横でいま毒薬を飲もうとしている人がいたならば、それを制止しませんか?」
「火事場で遊ぶ子供を見たら助けようとはしませんか?」
「誤った宗教を選び不幸の道を辿る人を、見ていながら助けないことは無慈悲極まる行為ではないですか?」と。

 大聖人もこのように仰せである。
「我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや。悪人、寺塔に火を放たんに、せいせざるべしや。一子の重病を灸せざるべしや。日本の禅と念仏者とを見て、せいせざる者はかくのごとし。「慈無くして詐り親しむは、即ち是彼が怨なり」等云云」

 これは、自分の父母が人に殺害されんとし、また自分のいとし子が重病におかされた時に、助けを求め、薬を与え、医者を呼び治療をしない人がどこの世界にあるであろうか。
これと同様、邪宗教たる禅、念仏等の謗法の汚泥に染まって、まさに地獄の炎にむせんでいる人を助けず、ただ世俗の関係で肉親の恩愛のみによって、こびへつらう事は真の慈悲ではなく、むしろ、彼等の救済の為には、かえって怨となっている、との御叱責されている。

 いま目の前で、川でおぼれかかっている人を見ながら、その悲痛な叫び声を聞きながら、その人を助けずに立ち去る事は、結果的には、その人を川に突き落して、溺死させてしまう事と、何ら変わらない。

 また冬の夜中に、布団をはいでしまっている我が子を見ながら、布団をかけないで風邪をひかせてしまった親は、子供の布団をはいで風邪をひかせるのと、結果的には同じ事である。

 私たちの折伏行もまさに、これと同様である。
邪宗教に騙され不幸になる人を、地獄に向かう人を目の前で見て知ったならば、相手を救おうという慈悲の心から邪宗教、謗法の恐ろしさを説き、真の幸せへの方途を教えるのである。
仏の使いとしての慈悲の行、それが折伏なのだ。

 私たちは、人を選ばず、縁ある人々に対し折伏を行う、如何なる誹謗を受けても、穏やかな心で耐え忍び、折伏を行ずる。
この機会を逃せば「次はない」との決意と、相手を思う強い一念を奮い起こして折伏に精進することが大切なのだ。

 まさに大聖人が、
「母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」
との母が我が子を思うように、どんな人に対しても相手のことを思う慈悲の心をもって折伏していこう。

第21号 H25.9.9 「亀の信心、うさぎの慢心」

 皆様は「鍛錬」「百鍛百錬」という言葉を御存知でしょうか。
幾度もいくたびもたたき、鍛え、錬りあげるという意味の言葉であります。
一本の名刀を作るのに刀鍛冶は何度、焼き鍛え、鎚を打ち、研ぎ磨くことでありましょうか。
私たち人間も?真金の人?といわれるためには、やはり鍛えるということが必要なのであります。

 私たちの修行も同じであります。大聖人の御指南を常に深く体しつつ、衆生を真に導き、成仏せしめる道は三大秘法の御本尊以外にないのであるということを本当に確信し、その上から一歩でも二歩でも、五歩でも十歩でも進んでいくことです。
それが行の意味であります。

 「うさぎと亀」という譬えがありますが、「着実」という意味において、参考になる話であると思います。
あれは、足の速いはずのうさぎが負けました。
うさぎはピョンピョン跳んでいったけれども、「ここらでちょっと一眠り」と眠ってしまいます。
その間に亀は、倦まず弛まずノソノソ歩いていって、うさぎが目を覚ました時には、亀は目的地に到達していたのです。

 このうさぎの考え方のなかには、「亀なんかに負けない。自分は絶対に勝れているのだ」という傲慢な心、驕りがあるのです。
この驕りが、人間の一番の悪徳の意味があります。
この驕りがあるから油断するのです。
「自分はこれだけ立派なことをしてきた。自分以上の人間はいない。あとはみんな私についてくればいいのだ」

 結局、この慢心と驕りによってうさぎが負けるのです。
亀は目立たないし、見栄えもよくないかも知れない。
けれども、着々と自らの進むべきことに常に倦まず弛まず進みます。

 うさぎのような慢心を戒め、常に謙虚な姿勢で一歩一歩、地に足をつけて着実に亀のように前進するとき、ふと自分が歩いた道のりを振る変えるとき、大きな進歩と功徳があるはずです。

 信心の功徳にも一獲千金はありません。あくまでも信心の厚薄、志の積み重ねによるのでありまして、地道な、まじめな信心が肝心ということなのです。

 清涼寺支部の誓願目標の道のりのも、目の前にある一つ一つの折伏を坦々と確実に行っていく、歩みを止めず常に前進することこそが、誓願達成のカギであります。