日蓮正宗美畑山清涼寺 千葉の清涼寺 法華講ホームページ 千葉県千葉市花見川区畑町

日蓮正宗美畑山清涼寺は、千葉県千葉市花見川区にある日蓮正宗の寺院です

〒262-0018 千葉県千葉市花見川区畑町2010番地 Tel.043-273-3987
従藍而青

今月の指針7月号 「白烏(はくう)の恩 忘るべからず!」

 颯爽(さっそう)と風を切って走る自転車。近年は環境保護や自然エネルギーへの関心の高まりと共に健康的な「優れもの」として世界的に脚光を浴びているらしい。その轍(わだち)は、僅か3センチ。しかしその何倍もの道幅がなければ、路上を走ることはできません。

 私達は、生れてこの方、無数のものに支えられながら生きています。「人」という字は、人が支え合う姿です。支え合い、助け合って生きていることを忘れてはなりません。父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩、そして三宝の恩、どれも絶対に忘れてならない恩徳です。

 歯が抜けて噛み締める親の恩。両親の無償の愛は、尽くしても尽くしきれるものではありません。人の親となり、年老いて初めて実感できるかけがえのない恩徳です。長じて社会に出れば、国土社会から受ける有形無形の恩恵も計りしれないものがあります。
所詮 社会は、人と人との繋がりです。たった一度の食事でも、そこには数え切れない人手がかかっています。一切衆生の恩恵がなければ、一日たりとも生きることはできません。
だからこそ「皆仏になれ」と思う化他の心が大事なのです。

 これらの恩に報いて実りある人生を送るには、正しい仏法僧の三宝の恩を報じて人格を磨くことが最も大事です。今、時代は五濁に塗れた悪世末法。
その時代に適った三宝は、本門戒壇の大御本尊を根本とした下種三宝以外にありません。三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊を通してのみ真の成仏、真の幸福が叶うことを銘記しましょう。

 自転車は、轍の何倍ものゆとりがあってこそ、悠々と走ることができる。私達末法の荒凡夫は、四恩の恩恵があってこそ自受法楽(じじゅほうらく)の充実した日々を送ることができる。
その根本にわが身を妙法に導いた「白烏の恩」(はくうのおん)があることを忘れてはなりません。この大恩をわが身に深くんで、謗法に染まった「黒烏」を折伏するのが法華講の使命というものです。

 さあ!一年の折り返し、後半最初の七月です。厳夏(げんか)を制して、『立正安国論』の破邪顕正の正義に燃えて折伏を実践し、共に手を携(たずさ)え報恩の誠を尽くしてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年7月1日号より

今月の指針6月号 「南橘北枳(なんきつほっき)」

 表題は、『南条兵衛七郎殿御書』にある、
「江南(こうなん)の橘(たちばな)の淮北(わいほく)にうつ(移)されてからたち(枳殻)となる」 (新編324頁)の内容を簡潔に表した四字熟語です。
中国の大河・揚子江の南に生育する高貴な橘も、気候風土が大きく異なる対岸の淮北に移植すれば、その実も食べられない枳(からたち)に変わる。人間が環境や境遇の違いによって大きく変化することを譬えた故事『淮南子』(えなんじ)の一つです。

 日蓮大聖人は、人の心は悪縁に弱く移ろい易いことを嘆き、
「すべて凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移り易き物なり」(『松野殿御返事』新編1049頁)と説き、
また『立正安国論』にも、 「人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる」  (新編248頁) と指摘されています。
それにしても移り易きは人の心、凡夫の心ほど悪縁に弱くうつろい易いものはありません。

 さて今、時代は末代悪世。表面上は一見華やかでも一皮むけば貪瞋痴の三毒強盛、互いに相食む混濁した時が流れています。この濁悪の世を清く正しく、力強く生きるのは並大抵なことではありません。
だからこそ羅針盤の如き正しい宗教、由緒正しき信仰の実践が求められてくるのです。

 宿縁深厚にして文底下種本因妙の妙法に巡り会った私達は、日夜正しい御本尊に正対して信行を積むことができることに深く感謝しなければなりません。
どこまでも、水の流れるごとく倦(う)まず弛(たゆ)まず信心に励み、一念無明の迷心を磨き、仏界を湧現して常楽我浄の人生を生き抜くことが大事です。

 『一生成仏抄』に、
「深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様にしてか磨くべし。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(新編46頁) と。
お互いに受け難き人界に生を受け、遇い難き妙法に巡り会った法華講の末裔(まつえい)です。
勤行・唱題の確実な実践で日々躍動し、互いに切磋琢磨(せっさたくま)して折伏のできる足腰の強い講中を築き上げましょう。六月末までには必ず100人の折伏を成し遂げ、広大深遠な仏恩に御報恩申し上げようではありませんか。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年6月1日号より

今月の指針5月号 「安きに居て危(あや)うきを思う 」

 「天災は忘れた頃にやって来る」これは明治の物理学者・寺田寅彦の名言です。災害の記憶は、何年たっても風化させるな!という警句でもあります。

 昨今、新聞やテレビのニュースでは、連日のように自然災害の悲惨な状況を報じています。
「ああ!また今日も世界のどこかで・・・」と、関心を示し同情はするものの、対岸の火事として聞き流す。これが喉元(のどもと)過ぎて熱さ忘れる凡夫の習いです。

 大聖人は、『富木殿御書』に、賢人と佞人(ねいじん・愚人)の違いについて、
「賢人は安きに居て危(あや)ふきを欲(おも)ひ。佞人は危ふきに居て安きを欲ふ。」(新編1168頁)
と説かれています。
もともと『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)の言葉です。唐代の名君・太宗(たいそう)は、『貞観政要』(じょうがんせいよう)の中で好んでこれを使いました。
大聖人が用いられた御真意は、単に天災に止まらず、人生万般に及ぶ守成(しゅせい)の大事を説く為だったと拝します。

 人間はややもすると平穏が続くと気が緩み、油断しがちです。安穏な時にこそ逆境を忘れず、一層気を引き締めて非常事態に備えることが大事です。いわゆる人生の危機管理です。
とりわけ正信を持つ私達は、平穏にあっても「蟻の一穴(いっけつ)」の戒めを常に忘れてはいけません。謗法厳戒は信心の要です。知らず知らず身に染(し)む懈怠(けたい)・慢心等の十四誹謗の点検を常に怠らない、それが賢者というものです。

 末法は、「謗法の者は十方の土、正法の者は爪上の土」 表面的には華やかで便利この上ない時代ですが、謗法と正法との見わけもつかず、無邪気に生きる人の姿が巷に溢(あふ)れています。
そんな時代に生まれ合わせた私達は、値い難き妙法に巡り会った法華講のかけがえのない同志です。「不染世間法如蓮華在水」(ふせんせけんほうにょれんげざいすい)の経文を命に刻んで、謗法に染まらず、破邪顕正の折伏に生きる使命があります。お互いに不退転の信心を貫き、常寂光の世界を目指して広布に汗を流してまいりましょう。

 今月は、松葉谷法難から約八か月後、「まだ生きているのが不思議」という何とも理不尽な理由で大聖人が伊豆流罪に処せられた五月です。この時大聖人は、法華身読(ほっけしんどく)を喜ぶ一方で、謗法の逆徒に罪を作らせることを嘆かれています。この広大無辺な大慈大悲に深く思いを馳せて、常に声を掛け合い、一意専心折伏に挑(いど)んでまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年5月1日号より

今月の指針4月号 「二辺の中には い(言)うべし 」

 四月は、立宗宣言の月。今から772年前の建長五年四月二十八日の朝まだき。清澄寺の嵩(かさ)が森に粛々と進み、その頂に決然と立たれた蓮長(日蓮大聖人)は、東方太平洋を望んで日の出を待ちました。
やがて遥か海上に旭日が輝き出でて走り抜けたその瞬間、蓮長は「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と、雄渾な題目を宇宙法界に向かって朗々と唱え出だされたのです。

 果たしてこの題目こそ、末法万年の闇夜を照らす大光明、末代悪世の一切衆生の苦悩を断破する大良薬、古今未曾有独一本門の題目だったのです。

 これに先立つ約一か月前の三月二十二日から二十八日の早暁にかけて大聖人は、清澄寺の一室にこもり、今後一身を賭して題目を弘通する為の深い思索を重ねられました。もし一言でも唱え出せば、我が身に降りかかる大難は火を見るより明らかです。それに対する不退転の覚悟を固められた御内証の宗旨建立を経て、いよいよ四月二十八日の立宗宣言の第一声となったのです。

 それから二十年後、佐渡で著された『開目抄』に、この時の一大決意が披歴されています。即ち、
「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきに に(似)たりと思惟(しゆい)するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。」(新編538頁)と。

示同凡夫・日蓮大聖人の心の葛藤が手に取るように拝せます。難を恐れ、反発に怯(ひる)めば、不知恩と無慈悲の誹りを避けることはできません。「言うか、言わないか」この二者択一を迫られた時、大聖人は「二辺の中には い(言)うべし」と決断されたのです。

 私達は、皆一様に「白烏の恩」によって妙法に巡り会った地涌の同志です。この世に充満する黒烏(謗法)の人々を折伏することが真の報恩です。遥か772年前における立宗宣言前夜の宗祖の御胸中に深く思いを馳せながら、難を恐れず、いよいよ地涌の使命に燃えて、折伏弘教の駒を進めてまいりたいものです。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年4月1日号より

今月の指針3月号「鬼子母神」(きしもじん)

 釈尊布教の主舞台となったインド・王舎城(おおしゃじょう)。そこに夜な夜な現れて、人の子をさらっては食い、わが子にも食わせて喜ぶ女の姿がありました。
人々はこれを鬼と呼び、五百人もの子供を産んだことから鬼子母神と呼んで恐れました。最愛のわが子を奪われた人々の悲しみは計り知れません。

 これを憐(あわ)れんだ釈尊は、ある日、鬼子母神の留守宅から五百番目の愛児を鉄鉢で覆(おお)って連れ帰りました。
出先から戻った鬼子母神は、最愛のわが子がいないことを知るやいなや、気が狂わんばかりに泣き叫びながら国中を探し回り、探しあぐねた末に釈尊に救いを求めたのです。

 「五百人のなかのたった一人ぐらい、どうってことないではないか」と、仏は優しく問いました。
「とんでもありません!どんなに大勢いたって可愛さに変わりがありません。もしこの子が見つからなかったら・・・。」と激しくかぶりを振って泣き崩(くず)れたのです。

 「たった一子でも失う悲嘆は、はかり知しれないものなのだ。僅(わず)か一人、二人とはいえ、かけがえのない子供を失った親の悲嘆がわかるか?」と、諄々(じゅんじゅん)と諭(さと)しました。
釈尊が衣の袖から愛児を引き出して返してあげると、奪うように受け取った鬼子母神は狂喜乱舞、その瞬間ハッと我にかえり、長い迷いから目が覚めて改心したのです。

 鬼のような女性にも強烈な母性は具わっています。今仏縁に触れて鬼性が消え、餓鬼界に具わる仏界が輝き、やがて五戒を受持する正法守護の善鬼となったのです。
御本仏大聖人は、三大秘法の御本尊に諸天善神の一つとして、その子・十羅刹女とともに勧請し、鬼子母神は今 末法救済の一翼を担っています。

 人は皆、親を選んでこの世に生まれることはできません。だからなおのことその因縁を大事にしなければなりません。
『刑部左衛門尉女房御返事』(ぎょうぶさえもんのじょう にょうぼう ごへんじ)に、
「親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。」(新編1504頁) と。
限りない無償の愛、それに対する孝養心の乏しさを厳しく指摘されています。
三月は春彼岸、父母孝養の絶好の機会です。
『上野殿御返事』云く、
「父の恩の高き事須弥山も猶(なお)ひき(低)し。母の恩の深き事 大海還(かえ)って浅し。」(新編922頁)

 山より高く海より深い両親の大恩に思いを馳せて、孝養を尽くし報恩の誠を捧げたいものです。先立った親には妙法の題目を認(したた)めた塔婆を供養し、健在な親には題目の功徳を手向けて健康長寿を祈る、これに過ぎる孝養と報恩はありません。
最善の信心を持(たも)って最高の人格を磨き、人の道を弁(わきま)えて更なる努力精進を重ねてまいりたいものです。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年3月1日号より

今月の指針2月号「鍛錬」

 元日、突如 能登半島を襲った大地震。被害の全容は未だ不明ですが、尊い命を落とされた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。甚大な被災を受けられた地域の皆様に一刻も早い日常が訪れることを心からお祈り申し上げます。

 鍛錬について、宮本武蔵は『五輪書』に、「千日の稽古を鍛といい、万日の稽古を練という」と述べています。剣豪修業の奥義だけに緊張感が漂(ただよ)いスキがありません。本来金属を打って鍛える鍛錬は、人の心や体や技を鍛える言葉として用いられています。千日にも万日にも、間断なき不断の響きがあります。

 何事も、努力と持続が大事です。天才は有限、努力は無限です。努力は天才に勝るともいいます。
スポーツ選手は、たった一日練習を休んでも、筋肉は衰え、技量が落ち、勝負勘も鈍るといいます。
また有名なピアニストは、「練習を一日休むと自分にわかる。二日休むと批評家にわかる。三日休むと聴衆にわかる」と言ったとか。
学問も稽古事も不断の努力と実践の累積が成功と栄光をもたらすのです。

 翻(ひるがえ)って私達の信心修行も努力と持続が成仏の鍵を握っています。御書には、
「受くるはやす(易)く、持(たも)つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり」
(『四条金吾殿御返事』新編775頁)と。
倦(う)まず弛(たゆ)まず生涯不退転の信心が成仏の要です。流水は腐らず。止まって淀(よど)む水ではなく、滔々(とうとう)と流れる川のような信心を心掛けたいものです。

『御講聞書』には、
「水は昼夜不退に流るるなり。少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは申すなり」 
(新編1856頁)とあります。
信心の努力と持続の先に成仏があり、「水の行者」の真面目がそこにあります。更に大聖人の誡めは続きます。

「月々日々につよ(強)り給へ。すこ(少)しもたゆ(弛)む心あらば魔 便(たよ)りをう(得)べし」
(『聖人御難事』新編1397頁) と。
「蟻(あり)の一穴」と侮(あなど)るなかれ、僅(わず)かのスキを魔が狙っています。油断は禁物です。

 信心は、内外の魔との戦いです。
昨日よりは今日、今日よりは明日と求道心を燃やし続けるところに、確かな成長と向上があります。進まざるは退転です。少しの謗法も見逃さず、魔に隙を与えず、いよいよ信心の畷(なわて)を固めましょう。不断の信行の累積に自行と化他の充実があり、成仏の境涯が確立されるのです。
鍛えの冬、厳寒の二月。雪中佐渡の大聖人に遥(はるか)に思いを馳(は)せて、奮起一番、折伏弘教に邁進してまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年2月1日号より

新年の辞 「信心の一念に億劫の辛労を尽くそう!」

 令和六年、新年明けましておめでとうございます。
講中の皆様には、気分一新、気力充実して「折伏前進の年」をお迎えのこととお喜び申し上げます。

 折伏と前進、耳に馴染(なじ)んだテーマです。
そこに新たな息吹きを吹き込んで、創意工夫を凝(こ)らし、弛(たゆ)まぬ精進を重ねてまいりたいと思います。

 布教は宗教の命です。
折伏なければ育成なし。育成に情熱を注がなければ清涼寺の興隆も広布の未来もありません。日々発心、惰性に陥ることなく、瑞々(みずみず)しい気分を持続して信行学を磨くことが大切です。

 勤行は基本中の基本です。
その功徳は甚大でも、万人に開かれた易しい修行という意味では凡事といえます。だからこそ徹底が大事なのです。
その着実な積み重ねが大きな功徳を生み、実り豊かな一年となって有為な人材が輩出し、広布の未来へつながっていくのです。

 順風が吹けば得意になって感謝を忘れ、逆風に見舞われれば依頼心が頭を擡(もた)げて御本尊に縋(すが)る、これは凡夫の習いです。宿業に負けて苦しむのは、信心に甘えた結果です。
『法華経涌出品』の
「昼夜に常に精進す 仏道を求むるが為の故なり」とあります。
この経文を大聖人は、文底下種の立場から、
「此の文は一念に億劫(おっこう)の辛労(しんろう)を尽くせば、本来無作(むさ)の三身念々に起こるなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は精進行なり。」
  (『御義口伝』新編1802頁)
と説かれています。
一念に億劫の辛労を尽すとは、自行から化他に及ぶ止暇断眠(しか だんみん)の修行に他なりません。無始の過去と無終の未来が凝縮(ぎょうしゅく)した現在の一瞬に強い一念を込めて題目を唱えれば仏智を涌現し、境界を開き、人生航路に行き詰まることがありません。

 南無妙法蓮華経の題目に全生命を注ぎ込まれた日蓮大聖人の尊い御化導を遥かに偲(しの)び奉り、血脈付法の御法主上人猊下に師弟相対する信心に妙法の功徳は沸々(ふつふつ)とわき上がってくるのです。

 唱題の一念に億劫の辛労を尽くして境界を切り開き、竜頭竜尾(りゅうとう りゅうび)実り多き「折伏前進」の366日でありますことを心よりお祈り申し上げ、新年の辞といたします。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
新年の辞 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年1月1日号より

今月の指針12月号「折伏に王道なし」

『十字(むしもち)御書』に、
「蓮はきよ(浄)きもの、泥よりい(出)でたり」
(新編1551頁)
と。泥沼に大輪の華を咲かせる蓮華は、二千年もの悠久の時を経て開花する永遠の華です。同時に根の朽ちない因果倶時(いんがぐじ)の不思議な花でもあります。
妙法の偉大な功徳は、その蓮華に譬えられ、その主体者である久遠元初の御本仏は、日蓮と名乗られて五濁に塗れた末法にお生まれになりました。「日蓮」とは、その体を表して余りある素晴らしい御名です。云わく、
「明らかなる事日月にす(過)ぎんや。浄き事蓮華にまさ(勝)るべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。」
  (『四条金吾女房御書』新編464頁)
私達の生きる世界は、表面の華やかさとは裏腹に、一皮剥けば煩惱と欲望の渦巻く娑婆世界です。
仏教ではこれを耐え忍ぶ世界、忍土(にんど)と呼びます。経済苦や病苦にはじまって人間関係・家庭不和・誹謗中傷、果ては戦争に至るまで、苦悩の種は尽きません。

 しかし蓮華が泥沼の深さが深いほど大輪の華を咲かせるように、煩惱・業・苦が深いほど本物の信心で真の幸せを勝ち取ることができるのです。
悩むがゆえに唱題で仏智を磨いて歓喜を生み、不幸のゆえに唱題で真の幸せを勝ち取ることができる。三大秘法の信心は、絶望からの希望の光、勇気と元気が芽生える生きる力の源です。
苦しみは、そこから逃れようとすればするほど纏(まと)わりつく厄介者。ならばそれに負けない正しい信心の根を深く張り、強く豊かに生きることが大事です。

 学問に王道なし。折伏にも王道はありません。そこに秘訣や虎の巻はありません。
題目を上げ切って確信をつかみ、智慧を養い、勇気を身につけ、後は最善の努力が全てです。私達の信力と行力に上限はありません。
折伏は抜苦与楽の慈悲行です。粗削りでも稚拙でも未熟でもいい、一途(いちず)に相手を思いやる誠意と熱意があれば、相手の心は動くのです。六難九易を引くまでもなく、折伏は難事中の難事です。だからこそそこに無上の価値と功徳があることを忘れてはなりません。

 送った日々を見つめ直して心機一転、明年につながる精進努力を重ねてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年12月1日号より

今月の指針11月号「人の短を言う事なかれ」

 秋もだいぶ深まって、はや晩秋です。猛威を振るった酷暑が嘘のような寒気に、今夏の異常な暑さが懐かしく思えて妙な気分です。
芭蕉の句に、「物言えば 唇寒し秋の風」という人生訓を読み込んだ名句があります。これは、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」という「座右の銘」に添えられた有名な一句です。

 芭蕉は、自分の長所は極力口に出さず、他人の長所を見つける努力を惜しまなかったのです。これを弟子にも教えて門下の融和(ゆうわ)を図り、切磋琢磨する門弟の中から其角(きかく)や去来(きょらい)など蕉門十哲(しょうもんじってつ)と呼ばれる優秀な人材が輩出したのです。
お互いに悪口は厳しく封印し、和気藹々(わきあいあい)とした気風の中で不朽の名作が続々と誕生したのです。芭蕉ほどの俳聖が、常に心掛けた謙虚な姿勢に頭が下がります。

 翻って異体同心は、私達の信心修行の鉄則であり、広宣流布の要です。
大聖人は、『松野殿御返事』に、
「法華経を持つ者をば互ひに毀(そし)るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。」(新編1047頁)
と仰せになって、同志間の誹謗中傷を厳に誡められています。
謗法に匹敵する悪行だからです。日常生活にあって、ついうっかり陰口をたたいて後味の悪さを経験することは少なくありません。それが災いに発展し、鉄壁な団結が綻(ほころ)ぶこともあります。正に災いは口より出でて身をやぶるのです。

 清らかな信心で六根を磨けば、自ずと人の長所に目がいって相手を尊敬する心が芽生えます。そこに慢心のつけ入る隙はありません。
私達は、最高の信仰を持って折伏を行ずる地涌の眷属です。どこまでも相手の仏性を敬い、「謗法を憎んで人を憎まず」の精神を堅持して折伏に臨むことが大事です。

 今を去る690年前の11月15日。
垂井(たるい)の雪中に広布願業の魂を埋められた第三祖日目上人の壮絶な御最期を遥かに偲び、忍辱(にんにく)の衣を纏い、折伏逆化の菩薩行に更なる精進を重ねてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年11月1日号より

今月の指針10月号「生きた学問、生きた信仰」

 現在、私達の身の周りには、たくさんのLEDが使用されています。
家庭にあっては超薄型テレビ、車のヘッドライトや逆光に強い交通信号機、街のあちこちで目にする電光掲示板、携帯電話の液晶画面、飛躍的に容量が増したレイザーディスクなど、数え上げればきりがありません。省力化も進み、環境にも優しく、温暖化対策の切り札として大いに期待されています。

 「20世紀は白熱灯が照らし、21世紀はLEDが照らす」。
エジソン以来の常識を覆(くつがえ)して20世紀中は不可能とまで言われた青色LEDの革命的な発明によってあらゆる色を作り出すことができるようになったのです。基礎理論の「実用化」が、ノーベル物理学賞受賞の決め手になったことは記憶に新しいところです。
「生きた学問」とは、正にこういうことを指すのです。

 私達の信仰も、単なる信心のための信心であってはなりません。
功徳が原動力となって生活が豊かになり、生きる勇気と智慧を与えてくれるものでなければ価値がありません。単なる気休めや一服の清涼剤でなく、命を見つめ、真に生きる力であってこその信心です。

 私達にとって朝夕の勤行は、基本中の基本です。
だからといって勤行さえしていればいいのではありません。その実践を基盤として何事にも真剣に取り組み、人一倍努力を重ねることが大事です。そこに旺盛な生命力と智慧が涌いてくるのです。

 勝れた理論も実用化によって初めて生活が豊かになります。
信心即生活も、体である信心の功徳が生活の上に溢れてこそ揺るぎない境界、生きること自体が楽しい自受法楽の境界が開かれてくるのです。

 自行が満ちて境界が開け、やがて化他の心が芽生えて折伏の意欲を掻き立てる。
自行の充実は折伏の原動力です。決めて祈って動けば、折伏は必ず実を結びます。
御会式の十月を迎えて一層信心の確信を深め、地涌の菩薩行に励んで価値ある人生を生き抜いてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年10月1日号より

今月の指針 9月号「大石も海に浮かぶ、船の力なり」

『光日房御書』に、
「針は水にしず(沈)む。雨は空にとゞ(止)まらず。蟻子(あり)を殺せる者は地獄に入り、死にかばね(屍)を切れる者は悪道をまぬか(免)れず。」
   (新編963頁)
と、殺生の罪が分かり易く説かれています。小さな針でも水に沈む、またどんな小さな雨粒でも必ず地上に降りてくる。小さな針や雨粒に譬えられる小さな命でも、命に違いはありません。殺せば悪道を免れることはできないのです。

 死と背中合わせに生きる侍の息子を持つ光日房。その最愛の息子は、何かの事件に巻き込まれて人を殺め、自らも横死したのでしょう。彼女は、不憫(ふびん)な我が子の後生を案じ、悲嘆に暮れる毎日を送っていたに違いありません。そんな境遇で頂いた御消息が、『光日房御書』です。「理由はともあれ、人の命を奪って親に先立った息子は、一体どんな処に生まれるのでしょうか。どうかお教え下さい、大聖人様!」 
この哀願にも似た問いに大聖人は、まず世間的な道理の上から殺生堕地獄の因縁を説かれています。その上で一転、仏法に目を向ければ、全く違った変毒為薬の視界が開けてくると諭されたのです。それは他でもない、妙法の大功徳と正しい信心と真剣な唱題です。

「小罪なれども懺悔(さんげ)せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ。」
と。どんな大石(大罪)でも海に浮かべることができる、それは船の力(妙法)です。またどんな大火(大逆)でも、消すことができる。それは水の力(唱題)です。
勿論そこに真剣な唱題、堅い信心の力が求められるのは言うまでもありません。勇気を持って、強い確信を持って一層信心に励みなさいと、厳愛の教導、渾身の激励をされたのです。
眠られぬ夜を過ごしていた光日房の心に、さぁーっと一条に光が差し込み、安堵の心が広がっていったことは想像に難くありません。

 生まれてこのかた謗法の罪、殺生の罪を犯さない人間などはいません。だからこそ過去遠々劫・現在漫々の罪障消滅の勤行を欠かすことはできないのです。いかなる大逆も深く懺悔して妙法を行ずれば、立ち昇る太陽のもとでたちどころに消え去る朝露にように罪障が消えていく。
だからと言って信心に甘えは禁物です。よくよく懺悔の心をもって真摯(しんし)に自行化他の信心に取り組むことが最も大事です。三大秘法の大御本尊の偉大な力用(りきゆう)を具えた大船に乗り、自らの成仏を願い、世のため、人のため、広布のため、折伏を行い尊き命を燃やし続けてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年9月1日号より