日蓮正宗美畑山清涼寺 千葉の清涼寺 法華講ホームページ 千葉県千葉市花見川区畑町

日蓮正宗美畑山清涼寺は、千葉県千葉市花見川区にある日蓮正宗の寺院です

〒262-0018 千葉県千葉市花見川区畑町2010番地 Tel.043-273-3987
ブログ

今月の指針 8月号「成功や賞賛もまた試練」 八風(利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽)

 人間の心には、いつも八つの風が吹いている。誰もが喜ぶ四順(しじゅん)と、心に逆らう四違(しい)です。御書に、
「賢人は八風と申して八のかぜ(風)にをかされぬを賢人と申すなり。」
(『四条金吾殿御返事』新編117頁)と。
賢人とは、この八風に侵されない人のことをいうのです。
利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽の八つの風です。

 利(うるおい)は、利益の利、即ち潤いです。仕事や商売がうまくいって財産ができると、つい有頂天になるのが凡夫の習いです。そこに油断や慢心が生まれ、魔に狙われるのです。

 次は衰え。年をとっても、病気になっても決して弱気になってはいけません。愚癡は禁物です。大聖人は、
「年はわか(若)うなり、福はかさなり候べし」
(『四条金吾殿女房御返事』757頁)と仰せです。
唱題の功徳で、若々しい老後、豊かな老境、不屈の精神を養うことが大事です。

 更に毀(やぶれ)と譏(そしり)、人前で罵倒されたり、陰口を叩かれたり、誰にでもある経験です。しかし他人の口に戸は立てられません。折伏に誹謗中傷はつきものです。忍辱の衣を忘れてはいけません。自分に恥じるところがなければ、強い心を養って打ち勝っていけばいい。もし自分に過ちがあれば真摯に反省し、変毒為薬していけばいいのです。

 次は誉(ほまれ)と称(たたえ)です。名誉と賞賛。褒められて怒る人はいません。成功を喜ばない人もいません。しかしそこに落とし穴があるのです。試練とは苦難だけではありません。賞賛だって試練なのです。「褒められたら気を付けろ!!」と言います。賞賛を励みとして一層精進を誓う、成功を機に更なる高みを目指す。「実るほど頭の下がる稲穂かな」の精神が大事です。

 最後は、苦と楽です。諸難には打ち克つ、楽しみには溺れない。苦の中に楽があり、楽の中に苦があることを忘れてはなりません。
八風に侵されない不動の境界こそ真の幸福な人生です。

 御金言に云はく、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。」
(『四条金吾殿御返事』991頁)
一閻浮提第一の大御本尊を懐き、信心を根本として広布に生きる私達が肝に銘ずべき永遠の指針です。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年8月1日号より

今月の指針 6月号「風こそ夜の窓をうつらめ 」

「おのづから よこしまに降る
雨はあらじ 風こそ夜の 
窓をう(打)つらめ」

 配流地・佐渡から鎌倉への帰途、駿河の三沢小次郎に日蓮大聖人が贈られた一首です。
本来 雨は、天から真っ直ぐ降ってくるもの、自ら横殴りに降ることはありません。にもかかわらず夜の窓を激しく打つのは、横殴りの風が吹くからです。

 私達の命は、善も悪も両方具えた善悪不二の命です。
その命が濁り、三毒に犯されて苦悩に喘(あえ)ぐのは、過去の罪障や誤った宗教や思想などの悪縁によるからです。

 人の命は善か悪か。これは人類永遠のテーマです。
性善説に対して性悪説は、人間は放っておくと何をするかわからない存在、だから法律や規則が必要だと説きます。
口約束など信用されない欧米社会では、まず契約です。
キリスト教の原罪をもととする性悪説が社会の根底にあるからでしょう。神との約束を守ってこそ人間は救われると説いています。

 これに対して、善悪無記(むき)を説く仏教は、縁というキッカケが善悪の分岐点、だから縁を大事にするのです。
人の命は、地獄から仏界までの十界が具わった一念三千の当体です。そのうちどの命が顕れるか、それは善悪様々な縁によります。
いずれにしても、仏界の具わった命は、かけがえのない無上の財です。
悪縁に紛動されず、宿業に押し流されない不動の境界を確かなものにするには、無上の縁が欠かせません。
それが久遠元初本因妙の南無妙法蓮華経の題目です。

 その根源を日蓮大聖人は、御本仏の立場から三大秘法の大御本尊として建立されました。
今 時代は、五濁渦巻く末法です。この御本尊を信仰の対象として勤行・唱題に励む以外に真の成仏の道はありません。

 ところで冒頭の和歌を賜った三沢小次郎は、この時、何らかの困難に直面して窮地(きゅうち)に追い込まれていたのかもしれません。
大聖人は、謗法と悪縁を風、人の命を雨に譬えて、悪縁に負けない純粋な信心を貫いて難を乗り越えろ!と激励されたのです。

 翻(ひるがえ)って清涼寺は、広布を目指す私達の蘭室(らんしつ)であり、麻畝の性(まほのしょう)に他なりません。
そこを信心練磨の道場として蘭室の友が集い、声を掛け合い、折伏に躍動する。
法華講の使命を果たすとは、そうした麗しい異体同心の躍動の中にあることを肝に銘じ、更なる精進を誓い合いましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年6月1日号より

今月の指針 5月号「目は口ほどに物を言う」

『六難九易抄』(ろくなんくいしょう)に、
「人の身の五尺六尺のたましひ(神)も一尺の面(かお)にあらはれ、一尺のかほ(顔)のたましひも一寸の眼の内におさまり候。」
    (新編1243頁)
と。五尺、六尺ほどもある人間の身体も、その魂は一尺(約30センチ)の顏に現れ、更にたった一寸(約3センチ)の両眼に収まるのです。
様々な縁に触れて次から次へと目まぐるしく移り変わる心模様が、僅か3センチほどの眼に現れる、考えてみれば不思議なことです。
「目は口ほどにものを言う」、「目は心の窓」と言われますが、蓋(けだ)し名言です。

 ところで、言葉に出さなくても相手の目を見るだけで、互いの思いは自ずと伝わるものです。
話をする時は相手の目を見なさい、と子供の頃はよく言われたことを懐かしく思い出します。
人の話をしっかり聞くためには、その目をよく見ることが大事、それは礼儀でもあります。

 ところで相手を深く思いやる心があれば、自然に優しい眼差しが生れます。
やがて心が通じ合い、心の距離が近くなり仲が深まります。
心豊かで眼福に富んでいる人には、他人の長所ばかりが見え、心が貧しく眼福の乏しい人には、他人の短所ばかりが目につく、これもまた事実です。

 大聖人は、「功徳とは即身成仏なり、また六根清浄なり。」と説かれています。
六根の初めが眼根。福徳溢れた目を具え、笑顔を絶やさず穏やかに人と接するには、唱題し、心を磨き、眼根を清浄にすることが大切です。
目に福徳が具われば自分も幸せになり、また周囲も幸せにすること受け合いです。

折伏は、相手を遣(や)り込める理論闘争や法論ではありません。
どこまでも相手を思い遣って苦悩から救い出す抜苦与楽の慈悲行です。
『教行証御書』に、
「和(やわら)かに又強く、両眼を細めに見、顔貌(かんばせ)に色を調(ととの)へて閑(しず)かに言上すべし。」
   (新編1107頁)
とあります。
日夜折伏に臨む私達にとって、常に心がけるべき御指南です。
決して感情に走ったり、声を荒げることなく、あくまで冷静に温和な表情をもって接し、確信をもって相手の過ちを指摘することが大事です。

 初夏の風が爽やかな好季です。
懈怠(けたい)なき勤行・唱題で培(つちか)った化他の力を、隋力弘通の力に変えて折伏に躍動し、尊き地涌の使命を果たしてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年5月1日号より

今月の指針 4月号「永遠は一念の中にあり」

 原因のない結果はありません。
しかし物事の原因がわからない時に、私達は、結果だけを見て「不思議だ、不思議だ」と叫びます。
しかし凡眼凡智には見えなくても、因果の道理は厳然と具わっているのです。
私達は、人の眼をごまかすことはできても因果の裁きを免れることはできません。
すべての物事は、三世を貫く因果の道理に貫かれています。げに恐ろしきは因果の道理、仏眼を恐れよ!です。

 因果を説かない宗教、たとえ説いても曖昧にしか説かない宗教は、外道です。
日蓮大聖人は、膨大な宗教の勝劣浅深を正しく判断する方法として、五重相対を説かれました。
その最初が内外相対です。そこで因果を説かない宗教を外道と選別したのです。

 『開目抄』に、
「過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし。」
    (新編524頁)
とあります。
三世の因果を無視した不自由窮まりない姿が説かれています。
過去の命を因として現在の果があり、それが因となって未来の生命へ繋がっていく、これが三世兩重の因果を貫く正しい生命観であり、生命の真実の相(すがた)です。
現在の自分の姿は、過去の業因の結果に他ならず、未来の自分も現在の命の中にあります。
三世を見据えた人生こそ、人間としての正しい生き方の基本であることを忘れてはなりません。

 ところで三世永遠の生命と言っても、詮じ詰めれば瞬間の命の連続です。
一瞬一瞬の生命の中に過去・現在・未来の全ての生命が含まれています。
御書には、
「南無妙法蓮華経は三世一念なり。」
    (『御義口伝』新編1801頁)
と説かれています。
瞬間の一念に永遠に崩れない幸せを築く方法は、三大秘法の御本尊への絶対の信心以外にありません。
御本尊に向かって真剣に題目を唱えれば無始の罪障を消して宿命転換し、永遠に崩れることのない不動の境界を確立することできるのです。

 四月といえば立宗宣言の月です。
激しい葛藤の末に、不退転の決意で法界に放たれた末法の闇を突き破る一大宣言でした。
大聖人の末弟に連なるわれら法華講は、その精神を今に受け継ぐ地涌の眷属です。
更なる奮起を誓い、自行から化他に及ぶ悔いなき精進を重ねてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年4月1日号より

今月の指針 3月号「根源を忘れるな!」

 現代は、万事、便利で快適な安・近・短がもてはやされる軽佻浮薄(けいちょう ふはく)な時代です。
物で栄えて心で滅ぶ、そんな時代に生きながら、目先のことや上辺だけに目を奪われて本質や根本を見失い、予期せぬ躓(つまず)きや失敗に繋がることも少なくありません。

 大聖人は、『華果(けか)成就御書』に、
「たとへば根ふか(深)きときんば枝葉かれず、源に水あれば流れかは(乾)かず。火はたきヾ(薪)か(欠)くればたへぬ。草木は大地なくして生長する事あるべからず。」
    (新編1225頁)
と仰せです。
根が深ければ、幹が伸びて枝葉が茂る。水源の豊かな川の流れは尽きることがありません。
薪が尽きればやがて火は消え、枯れた大地に豊かな収穫は望むべくもありません。
根の深さ、水源の豊かさ、肥沃な大地、これが大事なのです。

 草原に一陣の風が吹き抜けると一斉になぎ倒される草木のなかで、根の強(勁)いものだけが立ち残る。
正しい信心で心身を鍛え、幾多の風雪に耐えて社会に深く根を下ろしてこそ、堅実で豊かな人生が開かれていくのです。

 さて暦の上では春、弥生、三月です。厳しい余寒の中にも、春の気配を感じます。
大地の恵みを吸い上げながら風雪を凌いで来た山野の草木が、元気に春を告げる姿には頭が下がります。
長引くコロナ下、四季を選ばず広布の使命に燃えて常唱題し常折伏に励む同志の姿は、敬服に値します。
広布に停滞はありません。声を掛け合い励まし合って前進してまいりましょう。

 どこまでも私達の信仰の根源は、総本山大石寺に まします戒壇の大御本尊です。
末法の御本仏・日蓮大聖人が魂魄(こんぱく)をとどめられた一閻浮提第一の御本尊です。
総本山中興の祖・日寛上人は、
「無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり、故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則(すなわ)ち祈りとして叶(かな)わざることなく云々。」
    (『観心本尊抄文段』)
と、偉大な功徳を明示されています。
私達は、いついかなる時もこの根源を忘れてはなりません。
この大御本尊を人生の根本に据(す)えて、日々の勤行・唱題に懈怠(けたい)なく信心の根を深く張れば、物心両面にわたる豊かな人生が約束されるのです。
「決めて、祈って、動く」。この折伏の方程式を改めて肝に銘じ、自行を満たして折伏化他に果敢に挑んでまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年3月1日号より

今月の指針 2月号「謗法を悪(にく)んで、人を悪まず」

 自転車の轍(わだち)は、せいぜい3センチ余り。
だからといって、3センチしかない道路を走ることはできません。
何倍もの広い道幅あるからこそ細い轍で走ることができるのです。

 人間は、ひとりで生きていくことはできません。多くの人や物に助けられ、支えられて生きています。
「人」という漢字は、人が支え合う姿だとか。そこに知恩・報恩の大切さもあります。
仏教は、人間が他のものに依存して生きる縁起の道理を説いています。
そのうち報恩は特に大切で、それは親の恩・国主の恩・一切衆生の恩、そして三宝の恩の四つです。

 歯が抜けて噛(か)み締める親の恩。
山よりも高く、海より深い両親の恩は、わが子を持ち、年老いて実感する無償の愛です。

 国土社会から受ける有形・無形の恩恵も計りしれません。そこに社会貢献の大切さもあります。
国家社会は、人と人との繋がりで成り立っています。一台の自動車は勿論、たった一度の食事、たった一枚のシャツ、どれも無数の人手がかかっています。
一切衆生の恩を瞬時も忘れてはならない理由です。
ましてその九割九分が、妙法とは無縁の人々であることも見落としてはならない大事な視点です。

「罪を憎んで人を憎まず」とは、孔子の言葉です。
私達にとっては、「謗法を悪(にく)んで、人を悪まず」の精神です。
例え妙法を持たない人でも、直接・間接に世話になっている無数の人々に対して感謝の念を懐き、礼節を尽くし、信頼を築くことの大切さを忘れてはなりません。
その上で相手の真の幸せを願って実践する折伏が尊いのです。

 大聖人は、『上野殿御消息』に、
「昔は一切の男は父なり女は母なり。然(しか)る間 生々世々(しょうじょうせぜ)に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべきなり」
    (新編・927頁)
と、大乗菩薩の精神が説かれています。
下種三宝を信奉する私達の信心は、自身の成仏は当然として、両親・国家社会・一切衆生の恩に正しく報いる信心であり、その真の報恩は折伏に尽きることを銘記すべきです。

 たった3センチ余りの細い轍。
その上を颯爽(さっそう)と走る自転車は、広いゆとりの道があるからこそ悠々と走ることができるのです。
お互いに私達は、宿縁薫発して信心に励む妙法の体現者です。
正しい信心を根本に、知恩・報恩の実り豊かな日々を過ごしながら、悔いなき折伏躍動の日々を過してまいりましょう。

今月の指針 12月号 「言葉を慎んで徳を養う」

 人の耳は二つ、口は一つです。
話は控えめにして人の話をよく聞きなさい、という戒めかもしれません。
中国の古典『近思録』(きんしろく)には、
「言語を慎しみて以て其の徳を養い、飲食を節して以て其の体を養う。」と。
私は、「喋り過ぎる」、「もっと人の話を聞いた方がいいよ。」と、よく忠告されます。
ついつ喋り過ぎる悪い癖に反省しきりです。

 実りある会話を楽しむためには聞き上手になりたい。
でも聞き上手同士では話が弾まず重苦しい雰囲気になることもあります。
口の重い相手には、巧みに話を引き出す努力も必要です。
いずれにしても過不足のない話のキャッチボールができれば、話に花が咲きます。

 ところで私達は、朝から晩までひとことも話さないで過ごすことはできません。
しかし一旦口から出た言葉は、もとに戻りません。
だから言葉は大切なのです。

 さて仏教には、口にまつわる四つの悪業が説かれています。
平気で嘘をつく妄語(もうご)、
心にもないきれいごとを言う綺語(きご)、
人の悪口は悪口(あっく)、
二枚舌の両舌(りょうぜつ)、この四つです。
御書には、「わざわい(災)は口より出でて身をやぶる。」(『十字御書』新編1551頁)とあり、
『論語』にも、「九思一言」とあります。
普段から口を整えて言葉を選び、人を悲しませたり、傷つけたりすることのないよう努めることが大事です。

 『御義口伝』に、
「功徳とは即身成仏なり、又 六根清浄なり」 (新編1775頁)と。
唱題で舌根(ぜっこん)を浄め、口を幸せにして、美しい言葉、優しい言葉を発するよう常に心掛けていきたいものです。
文は人なり、言葉も人なりです。

 「折伏躍動の年」を迎えるに当たり、爽やかな勤行・唱題で命と言葉を磨いて折伏と育成に躍動し、大いなる飛躍を期したいものです。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2022年12月1日号より

今月の指針 11月号「一三三三年」

西暦1333年(元弘3年)。
 それは、日本史上の大きな転換点となった年です。
武家政権が司(つかさど)る鎌倉幕府が衰退して遂に滅び、約140年ぶりに天皇中心の政治体制に移行したからです。
その建武の新政も、新政とは名ばかりで、争乱に明け暮れた混迷の時代の幕開けでした。
戦乱に巻き込まれて犠牲になった民衆の数は計り知れません。
正に末法濁悪の様相そのものです。

 ところでわが宗門にとってこの年は、2月に第二祖日興上人が霊山に旅立たれ、宗内は深い悲しみに包まれておりました。しかし唯授一人の法統は連綿と第三祖日目上人へ継承され、そこにはいささかの乱れもありません。

 ややもすれば沈みがちな空気の中で一宗を統率遊ばされる日目上人の胸中に去来するものは、広布の停滞はいささかも許されないという強い使命感と責任感でした。
師弟相対の信心に純真に励む僧俗も、この試練を乗り越え、更なる広布への前進を誓い合ったに違いありません。

 そんな矢先に始まったのが建武の新政です。
混迷の時代の幕開けとはいえ、天皇政治に対する期待感は否応なく高まったのです。
顧みれば、大聖人の三度の高名も日興上人の国家諌暁も、謗法にられた権力者や仏法に盲目な民衆に受け入れられることはありませんでした。
日目上人はこの時とばかり、高齢を顧みず、病身を推して決死の上洛を思い立ったのです。

 しかし74歳の御高齢は大きな壁となり、永年の布教と度重なる国家諌暁の無理から来る衰弱は、如何ともしがたいものでした。
遂に御自身42度目となる天奏の途次、1333年(元弘3年)11月15日、寒風吹きすさぶ美濃垂井で寂光の宝刹に御還りになられたのです。
その壮絶な御最期は、ひたすら御遺命のままに広布に一身を擲(なげう)たれ尊極の御生涯でありました。

 勤行第三座の観念文には、日目上人を「一閻浮提の御座主」と尊称いたします。
それは、「全世界の民衆を指南し、化導する貫主上人」という意味に他なりません。
その尊崇の念は、いつしか「代々の御法主上人はすべてこれ日目上人なり」、「代々の御法主上人は目師の座に住す」と言い伝えられて現在に至っています。
これも偏(ひとえ)にあの壮絶な御最期に由来するものと拝します。

 宗門の末弟に連なる私達は、日目上人が垂井に雪中に留められた広布への至心を我が命に刻み、いよいよ折伏弘教の使命を果たしていかなければなりません。
互いに奮い立ち、更なる広布に向かって邁進してまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2022年11月1日号より

今月の指針 10月号 「鶴林」(かくりん)

 仏の死を鶴林というのは、沙羅林(さらりん)の下で釈尊が入滅されたとき、その床に沙羅の木が垂れて棺を覆い、あたかも白い鶴が舞うようだったことに由来しています。
白色が成仏の相といわれるのもこれと無縁ではありません。

 釈尊と永訣(えいけつ)の時が訪れて弟子や信徒の胸に去来したものは、自分の親以上の優しさと暖かさをもって接してくれた慈悲深い温顔をこれを限りに見られない、という悲痛な思いでした。

 苦しい時も楽しい時も、悲しい時も嬉しい時も、死の恐怖に怯(おび)えた時も、いつも傍で癒(いや)し、激励してくれた釈尊。
その偉大な人がいよいよ涅槃(ねはん)に入る。
人々は天を仰ぎ、地に伏せ、またある者は地に頭を打ち付けて慟哭(どうこく)しました。
泣いて、哭いて、泣き叫ぶ人間の悲しみに諸天が感応して、沙羅林が燦然(さんぜん)と白く変わったのです。

 自分が今死んだとしたら果たして何人の人が悼(いた)み、心から涙を流してくれるだろう。
打算ではなく、真心から霊前に線香を手向けてくれる人は何人いるだろうか。
「40歳になったら自分の葬式の事を考えておけ!」とある本で読んだことがあります。
「そうか。とうとうあいつも逝(い)ったか!」と聞き流されるような人生では、何と虚(むな)しく悲しいことでしょう。
棺の蓋(ふた)が閉まって人間の評価が定まる。
そうしたことに思いを馳(は)せるのも、人生の今を充実させる上で大切なことではないでしょうか。

 翻って、今月は御会式の月。一切衆生の苦しみを一身に背負って未曽有(みぞう)の大難を忍ばれた大聖人は、私達にとって主人のごとき守護であり、師匠のごとき羅針盤であり、両親のごとき無償の愛そのものです。

 三徳兼備の大聖人が、いよいよ御入滅の時を迎えると聞いた弟子檀那の戸惑い、悲しみ、慟哭、それは想像を絶するものであったことでしょう。
しかし病を推して渾身(こんしん)の力を振り絞った『立正安国論』の御講義を目の当たりにした弟子檀那の悲しみは、瞬(またたく)く間に不退転の広布の決意に変わったのです。

 「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。」
の末文に御一代の御化導が凝縮されています。
それは私達に対する不朽の御遺誡(ごゆうかい)そのものです。

 御会式の月を迎え、心新たにこの御文を互いの胸に深く刻みましょう。
広大無辺な大慈大悲に浴しながら一層真剣に自行を磨き、慈悲心を発揮して折伏・育成に精魂を傾けてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2022年10月1日号より

今月の指針 5月号「死んでからでは 遅すぎる!」

 時間は、物や金と違って蓄えることができません。
貯めておいて後で自由に使う、そんな芸当はできない相談です。
人を待たずにどんどん過ぎ去っていく時間。
だからこそ即座に無駄なく、しかも価値的に使わなければならないのです。

陶淵明(とうえんめい)は、
「盛年(せいねん)重ねて来たらず 一日再び朝(あした)なり難し 時に及んで正に勉励すべし 歳月は人を待たず。」
と。
二度と来ない朝を青春になぞらえて、若い時代に時間を惜しんで勉学に励めと警鐘を鳴らしたのです。

朱子(しゅし)が説く、
「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰(こういん)軽んずべからず。」という『偶成(ぐうせい)』の一節も同じです。
このように古来多くの人々が、時間の浪費癖を嘆き誡めています。

 明日生きる保証は、誰にもありません。
死は一定であり、そのうえ老少は不定です。
生は死とは常に背中合わせ、若いからといって死を遠ざけて無関心を装い、今健康だからといって管理を怠る、そういう人が少なくありません。
だから健康を害し、死に直面して周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するのです。

 さて、有終の美を飾って悔いなき一生を終えたい、叶うものならピンコロが一番と誰もが密かに願っています。
しかし大事なことは、それに備えて今何をしているか、それが何より大事です。
正しい信仰を持つ理由がそこにあります。

 人の命は、無始の過去によって現在があり、それが因となって無終(むしゅう)の未来に繋がる三世両重(さんぜりょうじゅう)の因果です。
それは永遠の生命の中で生死を繰り返す本有常住(ほんぬじょうじゅう)の命に他なりません。

 受けがたき人界に生を受け、朝露のようにはかない命を生き延びる。
その上に爪上の土の確率で正法に巡り遇えた福徳は、譬えようもない無上の喜びです。
僅かな時間も無駄にできない理由がそこにあります。
死んでからでは遅すぎる、命あっての信心修行です。
生きている今にこそ、倦(う)まず弛(たゆ)まず信心を磨き、臨終正念(りんじゅうしょうねん)を目指す悔いなき人生でありたいものです。

 三大秘法の大御本尊を持つ身の福徳に限りない感謝の念を持って、寸暇を惜しんで命を磨き、桜梅桃李(おうばいとうり)の個性を全開して、自受法楽(じじゅほうらく)の人生を生き抜いてまいりましょう。
日々新たな発心のもと、更なる自行を磨き、化他(けた)の折伏に精を出して、真の報恩を心がけてまいりたいものです。 

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2022年5月1日号より

今月の指針 4月号「折伏は法華講の命」

 『諸法実相抄』にいわく、
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へ伝ふるなり。」
   (新編御書666頁) 
末法万年の闇を照らす南無妙法蓮華経の題目は、日蓮大聖人が五濁(ごじょく)悪世にただ一人で点じられた久遠元初(くおんがんじょ)の光です。
その光に宿縁薫発(しゅくえんくんぱつ)して妙法を唱えた地涌の眷属(けんぞく)が、二人、三人、百人と唱え継ぎ、語り伝えて今があります。
「唱へ」とは、我が身を磨く自行であり、「伝え」とは、人に慈悲の手を差しのべる化他行に他なりません。

「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり。」
   (『三大秘法抄』新編御書1595頁)
と。
自行に安住することなく化他に及ぶからこそ真の価値があるのです。
毎日の真剣な勤行と唱題で磨く高い境界が利他(りた)の心を生み、それが抜苦与楽(ばっくよらく)の折伏にわが身を駆り立てる、正に、自行満ちて化他があるのです。

 遠く中国の南朝・梁(りょう)の時代。
絵描きの名人が壁に見事な竜の絵を描き上げ、あとは睛(ひとみ)を点じて完成を待つばかり。
固唾(かたず)を飲んで待っていた人達は、一向に睛を描き入れない絵描きにその訳を聞きました。
すると、「睛を入れたら、竜が天上に上ってしまう。」と言うのです。
いくら名人でもそれはないだろう、と誰も信じません。
肩を押されるように漸(ようや)く睛を描き入れたその瞬間、その竜は壁から飛び出し昇天したのです。

 「画竜点睛」(がりゅうてんせい)で知られるこの故事は、物事の最も肝心なところ、最後の仕上げを表しています。
折伏は、私達の信心の魂であり、最も大事な睛です。
もし私達が折伏を忘れたら法華講の命はありません。
それは画竜点睛を欠いた不完全な信心となってしまいます。

 戒壇の大御本尊御図顕(ごずけん)の機縁となった熱原法華講衆の純粋無垢(じゅんすいむく)な信心、その血を受け継ぐ私達は、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を今に蘇らせ、未来に伝える大きな責任と尊い使命があります。

 いよいよ一年の四分の一が過ぎ、地区の組織体制も整いつつある今、山野の草木萌え出ずる躍動の四月です。
立宗宣言の意義深き月に当たり、御法主上人猊下の御慈悲に確かにお応え申し上げるために発奮し、折伏に歩き育成に精魂を傾け、白烏(はくう)の恩に報いてまいりましょう。

清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2022年4月1日号より